アリスとの決別

山本弘さんの短編集。

アリスへの決別 (ハヤカワ文庫JA)

アリスへの決別 (ハヤカワ文庫JA)

さまざまなディストピアが描かれる本作ですが、それは華氏451図書館戦争的なもの──「大衆の中から草の根的に生まれるディストピア」であり、SFというコンテキスト自在ゆえに綺麗に描かれうる病理です。

あとがきの、

僕らはついつい世の中の悪いことを政治家のせいにしたがります。しかし、ヒトラーだって選挙で選ばれたことを忘れてはいけません。「アリスへの決別」もそうですが、これからの時代、ディストピアは大衆自信の意志によって生まれてくるのではないかと思うのです。

をあらゆる角度から描く短篇たちは、重く、憂鬱です。いかそれぞれを簡単に。

アリスとの決別
表題作。非実在青少年問題をタネにした短篇です。言論、表現、思想。そう、思想すら禁じることが技術的にできるようになったなら...。
リトルガールふたたび
マスゴミと呼びネットこそ自由と正さがあると思いたくなっちゃうわたしたちですが、そちら側に倒れた場合のディストピアは、前作とちがい自身が「ディストピアを生む大衆側」にいることから、グッ・・とつまってしまう小説です。ですが、この小説にはもう一段ディストピアが待ち構えていて...。
七歩飛んだ男
アポロは月に到着していなかったんだ!・・という陰謀論が、月に基地があり人が常駐する近未来でもあるとしたら。いや、あるんでしょうね。ところで月で殺人事件なんて、SF好きにはたまらんサスペンスですよね。チャーリーとか。
地獄はここに
これは SF じゃないのですが、やっぱり怖いお話です。
地球から来た男
詳しくはとても書けません。SFの体裁を整えることでタブーをかろうじて破っていますが、これはコンテキストを近未来に差し替え無いでも、いまここにあるディストピアですね。そういう意味で発言したら、大問題になるあたりも複雑です。

・・・と、ここまではいろんなディストピアのお話ですが、最後の二篇「オルダーセンの世界」「夢幻潜航艇」はそうではありません(正確には 前者は立派なディストピアなのですが、後者と世界観がつながっているから続き物ということで)。

この世界は、先進波の実験の失敗か?宇宙でなにかが起こったか?──なにかの決定的な原因により、ある日「現実」が崩壊し、それから過去と未来が対象になってしまっている世界。結果に合わせて原因もできてしまう世界は、つまり現実が夢の中のようになってしまっている世界、「亜夢界」。

「んー、それはちょっと……いえ、かなり誤解があるわね」
「何が?」
「私の言うドリーム(夢)は、寝ている間に見る夢じゃないの。物質のある状態を示す言葉よ。チャーム(魅力)やストレンジネス(奇妙さ)と同じく、純粋な物理用語なの──『シュレディンガーの猫』って聞いたことある?」
「ああ」

「オルダーセン」で露払いをしたのち、「夢幻潜航艇」ではかなり実験的な飛んだり跳ねたりする小説に仕上がっています(非常に面白い!)。夢ってこんな感じのわけわかめだよね、と本当に感心してしまいました。

さてこの「夢幻潜航艇」、読み終わってしばらくして気がついたのですが、この世界は「アリスとの決別」への救いになっているんですね。気付いて思わず「うまいなぁ」と唸ってしまいました。

それは、「非実在青少年」騒動に大きな不安を覚えたわたしにとってもユートピアに思えます。亜夢界、はやくこないかな?(三値論理に普通の人よりは馴染んでるプログラマだから、比較的上手に生きられそうとかおもうのは自惚れかしら)

余談ですが、この文庫の表紙の絵は大石まさるさん作です。本当に素晴らしい出来栄えですが、素晴らしい出来栄えだからこそ、・・その絵の一部を隠さなくてはいけない現実が(または隠すという表現が)、「アリスとの決別」のディストピアへの道の途上にわたしたちがいることを実感させてくれて、なんともイヤンな感じです。