沈黙のフライバイ

わたしの中ではすっかり「パンツのお医者さん」になってしまった野尻さんのハード過ぎるSFです。

沈黙のフライバイ (ハヤカワ文庫JA)

沈黙のフライバイ (ハヤカワ文庫JA)

本作は

からなる短編集です。

とても大きなものを書こうとしたとき、ディテールを削ぎ落とすか、その中の一部を別の作品として積み重ねていくとかあります。極端なのは、たとえば、永野護のファイブスターストーリーズとか(もう年表が作品)。

この野尻さんの作品は短篇なのにすべてすさまじいスケールをもっていて、長編にしたって入りきらない。でも野尻さんは超絶ディティールで世界を描くことにより、SF世界を実感させるような書き方をします。それは今の経験(実際の宇宙開発の現場の知見とか、野尻さんがモータパラグライダーで空を飛ぶことを趣味にしてたりとか)に裏打ちされていて、描き方が「手に取るよう」で時に難しすぎて何言ってるのかわかんないと感じてしまうくらい、リアルでSF世界を感じさせます(現実の専門外の知見だって普通「何言ってるのか解らない」だもの、だからリアル)。

でも、それでいて話が小じんまりとしてしまわない、むしろ、驚異的なスケールを持った作品を描けてしまうのは、野尻さんの小説は行間をガツンと空けて、その空白を読者にゴリゴリっと読ませてしまううことが出来るからです。

ゆりかごから墓場まで」はそれが如実で、三部から立つそれぞれ──タイの養殖池で「携帯用の閉鎖性体系」に着想を得る創業者、太陽光だけで生きていけることがもたらす変革の「理想」に酔った先進国のサラリーマンと現実、そして火星開発と最後の落ち──の間に「行間が詰まって」います。

野尻さんの手法をみて、わたし、劇場版ターンAガンダムで富野さんがエピソード(ディテール)を削いでも削いでも収まらないときに、前編(地球光)と後編(月光蝶)の間をガッツリあけて、そこを視聴者に想像させる・・という手法に思い至ったときに、ようやく纏められた、というエピソードを連想しました。野尻さんはそれが巧みすぎて、書いていないことを正確に読者に読ませることができる「空間の匠」だなぁ、とおもいました(なんということでしょう!!)。なんかジャグリングみたい(投げるのが上手いから放物線を描いてちゃんと手に吸い込まれるように戻ってくるみたいというか)。

その「空白を読まされる」そのものが、また心地よいものなのですよね。大好き。


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さて、全部素敵な短篇ばかりのこの本ですが、なかでも一番のお気に入りは「大風呂敷と蜘蛛の糸」です。学生が宇宙にいけてしまう、その着想の新鮮さも、ありえそうなリアル感も素敵ですが、最後の「次」への窓が開く、そしてそこへ進んでいくと読者に確信させるあたりのゾクゾクッとくる感触、それが読んでいて堪らなく嬉しいのです。