1984年

今年一番は、この小説にしようと決めていました。東京都条例の話でもありますし、でも華氏451度よりも1984年のほうが「ひとごと」に思えるから、怖いな、と思うのです。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

この世界は「ビッグブラザー」と市民を駆り立てる相互監視による酷い全体主義世界のディストピアです。まるで社会主義国を連想させるこの世界、「人々の善意の末の焚書」という、まだ「未来にまってそうだ」と身につまされる華氏451度にくらべ、普通の社会に棲むわたしたちには、酷い世界もあるものね、よかったこの国に生まれて、という感想を抱きがちです。けれど、本当にそうでしょうか。

わたしがハッとしてしまうのは、だって私たちの社会は、

「いいかい、君が相手にした男の数が多ければ多いほど、君への愛が深まるんだ。分かるかい?」
「ええ、とってもよく」

という言動を社会が許容しない。みんなが「ただしい」と思う価値観、そうでない試走や価値観を「病気」や「障害」のような目で見てしまう、社会から排除するのが正義と思ってしまう。そこは同じなのだと思ってしまう。

思春期まっただなかの、高校生が好きな人と抱き合うことを背徳とする。赤の他人のそれですら存在するのが許せない。法律で禁止してしまうくらいに。

「純潔なぞ大嫌いだ。善良さなどまっぴら御免だ。どんな美徳もどこにも存在してほしくない。一人残らず骨の髄まで腐ってて欲しいんだ」

わたしたちの世界にビッグブラザーはいないけれど、この世界に落ちる口は、いつだって大きく開いているんだと思います。

1984年は救いのない物語です(いや、一縷の救いはあるのかな?)。読感はちっとも愉しくなかった。けれど、やっぱりこういう作品は必要なのだなぁ、と思ってしまうのはこんなご時世だからでしょうか。

* * *

さてさて、ニュースピークという表現力に乏しい簡略化された言語を敷衍することで、思想統制をするネタですが、以前(高校生)のときに読んだのとちがい、今プログラマであるわたしには、なんだかとっても面白いアイデアに思えてしまうのです。日本語のケータイとかの四文字略語って、ニュースピーク的効果があるよね! car とか cdr もニュースピークかもしれない。