サニー/レイニー/レインボー

王道といえばこちらも。王道なゲイ文学です

サニー/レイニー/レインボー

サニー/レイニー/レインボー

本作は、高校生の3人の主人公を巡る、オムニパス形式になっています。

ある日 能登(主人公の一人)が、クラスの自習時間に突然みんなの前でカミングアウトするところから物語は始まります。黒板の前に立ち、彼は言います。

「僕はゲイです」

なんて恐ろしく、なんて痛々しい。わたしは、なにもそんなカミングアウトをしなくとも、と読みながら思わずには居られませんでした。この件を読んだとき、わたしは理想主義過ぎる、ゲイの夢でしかないはなしか、と思いました。だって、絶望の物語を描くようではなかったし、だったらクラスが受け入れてくれるって話にしかできないから。それを許さない いじめの構造を私は今もまだ忘れていません。

そんな能登をカミングアウトに踏み切らせたもの、それは――物語の世界で・・・、という展開が紡がれていくにつれ、わたしは、そういうファンタジーでない物語の魅力に次第に引き込まれていくのです。

この物語は、作者の心の傷をそのままのぞき込むかのようでした。性的マイノリティである痛み。「ニセモノ」を連れてきてしまう痛み。創作の痛み。作中で描かれるそれらの痛みはおそらくすべて作者の痛みそのもので、だからまだ乾きもせず、新鮮に、血を滴らせる傷はリアルで、飲まれていく。

決してハッピーエンドでは終わりません。けれども、「現在の」作者同様、ちゃんと生きていく。生きて幸せになれる。だって、歩んだ先に「現在の」作者がいるのだもの。

あとがき を読むに、この物語はただ一人により、ただ一人のために書かれた物語であることがわかります。

どうしようもない環境と勘定を生きていたあの頃の自分を、大人になった僕は感傷めいて思い出し、「お前はいま光の中にいるんだ!」なんて語りかけたりします。しかし中学生の僕は「うるせえ市ねジジイ!感傷とか感動とかなんの役にも立たねえんだ!」と中指を立てます。

でも、だからこそ届く深さだってあるのだよね、と強く思うこともあるのです。

これは、商業ベースでは「エッセイ」でしか出版の機会のなかったたぐいの先鋭さで、私が同人誌を愛する一つの理由ですが、そうしたものが手軽にリーチする時代になったのは良いことに思います。本当に届いて欲しい人に届くというのは、素晴らしいことです。

同時に「バカに見つかるリスク」が増えるため、マジョリティに根絶やしにされるまでのわずかな間の 微睡みのような空間なのかもれませんけれど。

パソコンのフィルタリングで「ゲイ」や「同性愛」という単語が弾かれる、というのはまじである話で、18禁じゃないやつでも読めなかったりします。しかも当然のように学校でも同性愛はなかったことにされているか、もしくは公然と嘲笑の的になっている。
そんな中で生きていくなんて、「僕は違う」と耳を塞いで、自分の心も偽って、ばらばらになるしか道がないじゃありませんか……。

届くべきひとに届くといいな。