フルサイズ信仰

フルサイズ信仰と言うのを奇妙に感じます。

光が現実に像を結んだフィルムそのものを鑑賞するには、35mm フィルムは小さすぎます。フィルム全盛期の各種フォーマットの中では「極小フォーマット」と位置づけるべきものです。だから、デジタルイメージングになったとたん、「デカイものの基準」として語られる感覚が奇妙に感じるのです。

写真の仕組み自体への感動としては、やっぱり光学系が焦点面に描き出した像を、化学反応で保存する――つまりその像のモトネタがあったその世界にそのフィルムも同席していたという感覚があるとおもいます。あぁ、見ているこの像は、像が転写された瞬間に被写体からの光を受け止めていたんだなぁ、という「モノ」の感覚が素敵です。

けれど、例えばサービスプリントのそのもののサイズのフィルムを使っては、カメラはちょっと大きくなりすぎ(わかりやすいのはポラロイドですね)。そこで発想の転換。「ちっちゃく撮って、後から拡大光学系で大きく引き延ばせば良いじゃん。」というもの。画質?そんなのよりカメラの軽快さのほうが大事って選択肢もあるんだよ。

そうして誕生したのが 35mm(ライカ判)なので、イメージャサイズを引き継ぐよりも、本体サイズを引き継ぐ方が デジタルに 35mmフィルムカメラの精神を引き継ぐ上で 大切じゃないのかな?、とついついわたしは思ってしまう。


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35mm判は、フィルムそのものを鑑賞対象としないので、写真の「モノ感」が薄いです。フィルムは、多くの人の感覚で映像をデータ化されたもののように振る舞います。その感覚がフィルム全盛期から既にあったから、ごく自然に 同じデータとして フィルムも デジタルデータも比べてしまえるのだと思います。

データとして比べた場合、35mm判という「サイズ」は、像の大きさじゃなくって、ボケ量というデータの質、ノイズ耐性というデータの質を差します。絵で言えば、小さなカットや見開きのイラストを同じ軸で語ったりは決してしないのに、写真になれば異なる大きさの絵を 同じ評価軸で比べてしまえるのは、35mmフィルムのころから「大きさ」という概念が実はなくなっていたのだなぁと思いました。

つまりね、イメージャのサイズと口では言いつつも「絵の大きさが違う」なんて誰も考えていないってコト。